『孤独の発見』天野太郎 横浜美術館 主席学芸員

 江幡京子の作品は、事前に連絡を取り合った高齢者(この場合は、現役を引退した)の自宅を訪ね、一日のうちで最も滞在時間の長い部屋を撮影させてもらっ たものである。ここでは、部屋の主は登場することはなく、もっぱら日常の生活の一端が撮影されている。そこには、どの家でも見る事の出来る日常の品々が、 それぞれの好みでレイアウトされている風景がある。
 高齢者に限ったことではないが、その都度必要に応じて買い求められた、あるいはすでに生まれ たときには在った生活の必需品の数々は、それぞれ日々満遍なく使用されるとは限らない。いつの間にかほこりにまみれ、すっかりご無沙汰に成ってしまった品 々というものは誰にでも思い当たるだろう。
 必要に応じて求められたものたちは、まさに必要とされている間は、目的に合ったモノとしての存在理由を有している。ところが、もう機能しなくなったり、たんに忘れ去られてしまったりしたモノたちは、やがて単なる物体に戻ってしまう。
  とは言え、そうした主人とモノとの関係は、それらの関係を示す部屋が風景として、この場合の江幡の写真にように、撮影されたからといって、その関係の濃淡 まで反映されるわけではない。写されたモノに被っているホコリやいかにも長い間使用されていなさそうな褪色の具合で想像するしかない。
 よくモノ には、その持ち主の記憶が刻み込まれている、といった言い方をする。確かに、年期の入った道具類等は、擦り減って元の形を大幅に変形させてしまったもの等 を見れば、そうした言葉も頷ける。しかしそうだとしても、道具であるということ、そして使い古されたことを示す変形した形にたいする見る側の事前の認識が あるからこそ、そのように「思い込む」のであることも忘れてはならない。念の入った古美術の贋作のように、「それ也に」見せる細工は、そもそもこちらの古 色=価値あるもの、といった思い込みを逆手に取ったものだからだ。
 使われなくなったものの表情に、物悲しさを憶えるのは、いつの間にか我々に刷り込まれた認識なのかもしれない。真新しい神社、仏閣よりは、当時の塗り込められた極彩色がすっかり消え去った古寺に格別の価値を憶えるのも似たようなことかもしれない。
  江幡の作品は、そうした人がある認識をすることで俄然特定の意味が生まれる人とモノに関係について、我々に提示しようとしているのかもしれない。それは、 風景といったものも同様であって、それを風景という特定の認識に立つからこそ初めて風景が成立するのであって、認識するものが居なければ、それらは単なる 自然の現象にすぎないからだ。モノに対峙したときの感情の高まりや、ここにはいない主の一種の換喩としてのモノを巡る記憶の共有、それは、身近な人間にし か了解出来ないことのように思うかもしれないが、誰しもが経験する身体の延長(のように思っている)としての愛着あるモノたちとの関係の上に立てば、そこ にはもう少し広く共通した理解が生まれるように思う。
 写真は、見えないものまでも写し出すわけではない。写し出されたモノの情報を読み解き、そ うした不可視の部分をこちらが補うことでようやく撮り手の意図が浮上してくる。個々のモノを見つめることを提供する江幡の作品は、まるで静物画のように、 「丹念にそして忠実に」それらのモノたちを把握しているからこそ、ついには他のものから切り離された静寂すら獲得している。同時に、いずれは主を失うモノ としての運命が、生のはかなさ、現世の虚しさを寓意化する現在のヴァニタスとして画面に立ち現れる。